何かをされたわけではない。それでも、本音は話さなくなっていく。
アーシュレーシャー(Ashlesha) ── 距離を置かれる者
アシュレシャ、アーシュレーシャ、Āśleṣā と記載されることもある。
アーシュレーシャーは蟹座16度40分から30度00分に位置し、支配星は水星、司る神格はサルパ(蛇神)である。象徴はとぐろを巻いた蛇。ガナは羅刹族。
▶ 参考記事:ナクシャトラの三つのガナ ── 神族・人族・羅刹族
多くの解説では、とぐろを巻いた蛇という象徴から、直感、神秘、そして変容という言葉が導かれる。それは正しい。ただ、それだけでは、この人と関わったあとに残る、あの重さの説明にはならない。
古典では、アーシュレーシャーに生まれた者は、香料、果実、爬虫類、蛇、そして毒を扱う者となり、他人の財を奪い取ることを喜び、あらゆる種類の医術に長けると記されている。そして、他人の仕事に注意を払わず、罪深く、恩知らずで、人を欺くことに巧みである、とも記されている。
毒と、欺きと、医術。この三つが、同じ一つの節に並べられている。
アーシュレーシャーは、27のナクシャトラのなかでも、厳しく評されてきた。伝統的な解説では、そこに不誠実、偽りという語が重ねられる。
厳しさの裏づけは、記述だけではない。アーシュレーシャーは、蟹座の最も終わりに位置している。水の星座が終わり、火の星座へ移る境目である。この境目に立つ6つのナクシャトラはガンダムーラと呼ばれ、古くから注意を払われてきた。
▶ 参考記事:ガンダムーラ ── 6つのナクシャトラと、家族をめぐる言い伝え
アーシュレーシャーという名は、抱擁を意味する。抱きしめること、巻きつくこと、離さないことを指す語である。
そして古くから、このナクシャトラに宿る力は、毒を負わせる力であると言われてきた。その始まりに置かれているのは、噛むことではない。蛇が近づくことである。そこから起こるのが、震えと動揺。行きつく先が、獲物の破滅であり、相手が動けなくなることである。
表立っては、何も起きていない。それでも、この人と関わったあとには、うまく言葉にできないものが残ることがある。そして警戒だけが、少しずつ積み重なっていく。
見えない一線
アーシュレーシャーは古くから、「鋭い」ナクシャトラに分類されてきた。古典では、この分類に属するナクシャトラは、陰口や、もめごとを起こすこと、人と人を引き離すことに適するとされている。そして伝統的な解説では、その性質が、そこに生まれた人の気質にも現れると考えられている。
現れ方は、静かである。
誰かのことを、声高に悪く言うことはない。嘘とも言えない。ただ、どの事実を先に置き、どれを言わずにおくか、どう言い添えるかが、選ばれている。だから聞いた側は、対象となった人の評価を、自分自身でそう判断したのだと思う。まさか、そう思わされているとは、考えない。
その場に、話題にされている本人はいない。
だから、あとから確かめようがない。悪口を言われたわけでもない。それなのに、その人を見る周囲の目だけが、以前とは変わってしまっている。
誰が変えたのかは、分からない。だが、その変化があまりに自然なので、誰にも気づかれていないのである。
ただし、いつでも誰にでも、こうなるわけではない。本人にとって重くない事柄であれば、意見は聞かれ、そのまま通ることもある。
こうしたことが起こるのは、この人が自分のものとしたものに手がかかったときである。定めた方針、信じている考え、手放せずにいるもの。抱きしめること、巻きつくこと、離さないこと。アーシュレーシャーという名が指しているのは、この執着である。
そして、それが何であるかは、外からは見えない。伝統的な解説では、この人は自分の内側をめったに語らないと記されている。どこに触れたのかが分かるのは、触れたあとである。
そのとき、話し合いにはならない。異を唱えても、返ってくるのは検討ではない。相談の形を取っていても、決定はすでに済んでいる。押し切られ、命じられて、話は終わる。
そもそも取り合われないこともある。古典に、他人の仕事に注意を払わない、と記されているとおりである。相手の言い分は耳に入らない。返事が来ないまま、なかったことになる。
伝統的な解説では、アーシュレーシャーの人は怒りを内に抱えるが、それをめったに表には出さないと記されている。だが、その怒りが出たときには、加減がない。相手が誰であるかも、それまでどれだけの年月をかけて信頼を築いてきたかも、関係ない。
それまで積み上げてきた関係が、その一度で終わることもある。
そして、これは怒りの場面だけに限らない。伝統的な解説では、アーシュレーシャーの人は受けた仕打ちを忘れず、時が来るまで待つと記されている。
相手が忘れても、この人は忘れていないのである。
恋愛・パートナーシップにおいて
アーシュレーシャーの人が、「守る」と決めた相手になるということは、その内側に入るということである。
蛇神は、宝と聖域の守り手とされてきた。ふさわしくない者を、そこへ近づけない。伝統的な解説でも、この人が身近な者に対して強く保護的であることが記されている。外からの脅威に対して、この人は退かない。
だが、内側に入るということは、同時に、見られる側に立つということでもある。
伝統的な解説では、アーシュレーシャーの人は、相手の心を正確に読むと記されている。言われる前に察知し、隠しごとを、告げられる前に見抜く。守られる場所にいる者は、その力が常に自分に向いている場所にいる。
取り繕えない。嘘は持てない。そして、この人自身のことは、年を重ねても見えないままである。
見えているのは、いつも片方だけである。
争いになれば、そのことがはっきりする。伝統的な解説では、アーシュレーシャーの人は、争いのとき、相手の最も弱いところを正確に突くと記されている。自分でも知らなかったその場所を、この人は知っている。
そこを突かれた傷は、簡単には癒えない。そして伝統的な解説では、アーシュレーシャーの伴侶は、この人を理解しないまま過ごすことが多いと記されている。深く結びついていることと、互いを知っていることは、同じではないのである。
暗がりのほうへ
古典では、アーシュレーシャーの人が扱うものとして、香料、果実、豆穀、爬虫類、蛇、そして毒が挙げられている。
伝統的な解説が挙げる職域も、そこに重なる。薬品や毒物を扱う仕事、化学、薬学。医療。催眠療法。
そして、繰り返し挙げられるのが、隠されたものを明るみに出す仕事である。真相を突き止める仕事。物事の裏側を掘り下げる研究。法を扱う仕事。いずれも、表向きの言い分だけでは務まらない場所である。
伝統的な解説では、アーシュレーシャーの人は、危機の場面で冷静さを失わないと記されている。周囲が動揺している場でも、判断は乱れない。
話さなくても、分かってしまう人
厳しい語が示しているのは、力の強さである。その力がどこへ向かうかまでは、書かれていない。
伝統的な解説では、アーシュレーシャーの人は、相手が隠している動機を察知し、他の者が見落とす真実に届くとされている。そして、人の心を癒す仕事、人を導く仕事にも向くと、記されている。
その力は、これまで見てきたとおり、向けられた側には恐ろしいものである。だが、向く先が変われば、働きも変わる。
周りが皆、欺かれているとき、一人だけ気づく。誰もが良い人だと言う相手が、裏では手を抜いていること。見せかけだけであること。評判のとおりの人ではないと、分かってしまう。
逆もある。皆が問題のある人だと決めてかかっている相手が、実は誠実に、任された仕事を果たしていることにも、気づく。
カウンセリングの場では、この力がそのまま働く。相手が言葉にできずにいるもの。自分でも気づいていない、心の奥にある悩み。本当の苦しみがどこにあるのかを、見つけることができる。
相談者にとって、誰にも言えなかったことや、誰にも分かってもらえなかった気持ちを分かってもらえることほど、救われることはない。
だからアーシュレーシャーを理解する鍵は、何をされたのか分からないという不可解さの奥に、この人にはすべて見えている、という前提を理解しておくことにある。
毒も、薬も、体の内側に届くものである。人の心を見抜く力も、同じところに届く。だから、人を救うことも、人を破滅させることもできる。古典が、毒を扱う者と人を癒す者を書き分けなかったのは、そういうことなのだろう。
この力をどちらへ向けるかを決めるのは、この人である。そして、その判断は外に出ない。すでに決まっているのかどうかも、分からない。
アーシュレーシャーの人と関わるとき、私たちが本当に向き合っているのは、目に見える言動ではない。良好に見える関係でも、いつ毒を盛られるかわからない、という危険と、常に隣り合わせだということなのである。
-1.png)