なぜ、あの人はどれほど打ちのめされても、また立ち上がってくるのか。その明るさの奥に、何があるのかを知る人は少ない。
プナルバス(Punarvasu)── 光に還る者
プナルバスは双子座20度00分から蟹座3度20分にまたがり、支配星は木星、神格はアディティ神である。象徴は矢の入った矢筒、あるいは弓。ガナはデーヴァ(神族)、要素は水。名は「再び(Punar)」と「光・善・住処(Vasu)」から成り、「再び光に還る」「帰還」「再生」を意味する。
27のナクシャトラの中でも、プナルバスはしばしば最良の一つに数えられる。木星に守られた、希望と再生と慈愛の星。解説を読めば、楽観・善良・寛大・養育といった言葉が並び、影がほとんど見当たらないナクシャトラとさえ言われる。
だが、その讃辞を、もう一段深く読んでみてほしい。どんな状況からも復活する。普通なら絶望するところでも希望を失わない。闇のなかにあっても光を見つける。──これらの言葉は、裏返せば、何を前提にしているだろうか。復活が語られるのは、それだけ打ち倒されるからである。希望を失わないことが讃えられるのは、絶望のただなかに、何度も立たされるからである。闇のなかの光が語られるのは、その人が、闇を知っているからにほかならない。
プナルバスが「光の星」と讃えられること自体が、その光を必要とするほどの闇を、繰り返し通ってきたことの証なのである。
プナルバスの核にあるのは、再生である。失っては、また始める。倒れては、また起き上がる。その回復力は、27のナクシャトラの中でも際立っている。
ここで、この星の象徴である矢筒を思い出したい。古典によれば、プナルバスの矢筒に納められた矢は、ただの矢ではない。月のナクシャトラにプナルバスを持つとされる英雄ラーマは、決して尽きることのない矢筒を授けられたと伝えられる(※ラーマは、その高貴さ・慈悲・徳という、プナルバスの性質を代表する神話上の英雄)。放たれて的を射たのち、再び手元に還ってくる、神々の矢である。射れば失われる普通の矢とは違う。何度放っても、矢は尽きない。プナルバスの人の回復力は、この矢に似ている。どれだけ放たれ、どれだけ遠くへ飛ばされ、どれだけ失われたように見えても、その人はまた、戻ってくる。
帰還を、繰り返すということ
しかし、ここに、解説書がめったに踏み込まない真実がある。何度でも還ってこられるということは、何度でも、還らねばならないほど遠くへ飛ばされる、ということだ。
プナルバスの人生は、平らかな一本道であることが少ない。転居、転職、人間関係の結び直し、信じていたものの揺らぎ。築いては失い、整えては乱され、そのたびに、また一から立て直す。古典は、プナルバスの人が最初の挑戦でしばしば失敗し、二度目に成功すると伝えている。一度で成功することは少ない。一度目に倒れた同じ場所へ、もう一度立ち返らされる。
それでも、この星に生まれた人は、立ち上がる。絶望のただなかで、もう駄目だと思われるその瞬間から、心のどこかが、すでに次の道を探しはじめている。必ず方法はある、乗り越える道はある、と。だがそれは、軽やかにできることでは決してない。打ちのめされ、すべてを失ったなかで、それでも生きるために、ほかに道がないから立ち上がるのである。倒れるたびに、その人は大きな決断をしている。もう一度だけ、と。その決断は、はたから見れば再生の才能のように映るかもしれない。だが本人にとっては、毎回が、生きるか否かの瀬戸際で絞り出す、必死の選択なのだ。
不死鳥という比喩
プナルバスの再生を、不死鳥にたとえる人がいる。だが、その比喩は、しばしば浅く受け取られている。
不死鳥は、ただ蘇る鳥ではない。一度、完全に燃え尽きる鳥である。元の姿を保ったまま戻るのではない。すべてを失い、灰になり、その灰のなかから、新しく生まれ直すのだ。プナルバスの帰還は、これに近いことがある。光が少し陰る、という程度ではない。すべてが燃え尽きたと感じられるところまで落ちて、それでもなお、そこから立ち上がる。普通なら終わってしまう地点が、この星の人にとっては、出発点になる。
実際、プナルバスの人のなかには、心の打撃だけでなく、命に関わるような事故や災難からでさえ、不思議なほど無傷で還ってきた、という話を聞くこともある。古典でも、プナルバスの人が事故や病から、傷つくことなく抜け出すことがあると記されている。
この星の、最も静かな強さ
これほどの再生を生きる人が、どんな心を持っているか。意外に思われるかもしれないが、古典が繰り返し伝えるプナルバスの本質は、足ることを知る心、である。
偉大な聖典の伝えるところでは、月のナクシャトラにプナルバスを持つ人は、容易に満ち足り、自らを律し、穏やかで、善良な性質を持つという。わずかなもので満足できる。多くを求めない。嵐が過ぎたあとの、洗われた大気のような静けさ。これがプナルバスの、もう一つの顔である。あれほど激しく打ち倒されながら、その人の根に流れているのは、争いよりも調和を好む、穏やかさなのだ。
おそらく、この穏やかさこそが、再生の源でもある。多くを握りしめていないから、失っても、また手放して進める。足ることを知っているから、すべてを失ったあとの、わずかな光にも、希望を見いだせる。プナルバスの強さは、力強く抗う強さではない。しなって、折れずに、また伸びる、竹のような強さである。
恋愛・パートナーシップにおいて
プナルバスの人の恋愛にも、矢筒の矢の物語が流れている。放たれて、また還る。古典は、プナルバスの結婚には、ひとつの型があると伝える。すぐに定まるのではなく、探し、さまよう時期を経て、やがて落ち着くべき場所へ還っていく。それは実際の旅や移り住みとして現れることもあれば、いくつかの出会いを経て、ようやく本当の相手に気づく、という形をとることもある。
そして、その帰還は、平らかな一本道とはかぎらない。プナルバスの恋愛には、一度壊れて、また建て直すという段階が含まれることがある。距離を置く時期、大きな衝突、別離。それを経て、再び結び直す。あるいは、一つの関係が終わったのち、まったく新しい場所で、もう一度始める。先のラーマもまた、最愛の伴侶と引き裂かれ、長い試練を経て、再び巡り会ったと伝えられる。失っては取り戻し、壊れてはまた築く――恋愛においても、プナルバスはこの再生の物語を生きることがある。
伴侶を得たとき、プナルバスの人は、温かい家庭を築く。木星の寛大さと、アディティ神の母性が、相手を包み、守り、その人が安心して育っていける場所をつくる。争いより和を選び、相手の弱さを責めるより、もう一度を与える。一緒にいて、ほっとする人。それがプナルバスという伴侶である。
だが、その同じ優しさが、この星の恋愛における、最も深い痛みの源にもなる。プナルバスの人は、許しすぎる。本当は終わらせるべき関係に、もう一度と戻ってしまう。相手を、実際よりも良く見てしまう。愛を絶やさないために、不当な扱いさえ受け入れてしまうことがある。再生の星は、関係においても「やり直し」を信じる。その信じる力が強いからこそ、見限るべき相手を、なお信じてしまうのである。
優しさが、人を遠ざけられないとき
この「もう一度を信じる力」は、恋愛にかぎらず、人との関わり全般に及ぶ。友人、同僚、家族。プナルバスの人は、一度裏切られても、相手を切り捨てることがなかなかできない。許し、また迎え入れ、関係をつなぎ直そうとする。それは美徳である。
だが古典は、この性質の危うさにも触れている。傷つけられてきた相手を、また信じてしまう。利用されていると気づきながら、距離を取れない。平和を求めるあまり、繰り返される負のパターンを、見過ごしてしまうのである。その結果、同じ種類の痛みを、何度も味わうことがある。
それでもプナルバスの人は、自分を責めて立ち止まるより、それでもまた信じよう、と前を向くことが多い。それは優しさの罪ではない。希望を持てることと、希望を持ちすぎてしまうことは、同じ一つの力の、表と裏なのである。
母なる源──支配神アディティ神
プナルバスのこうした性質の、最も深い根は、この星の守護神にある。
その守護神アディティは、すべての神々がそこから生まれた、母そのものである。世界の各地には、それぞれの民族が母と呼んできた神格がある。名も、姿も異なる。だがアディティは、そのすべての母なる神々の、さらに源にあるもの──境界が引かれるより前の、根源の母性とされる。
その子供である神々は、世界を律するさまざまな徳を司っていて、神々と人間界の双方の領域を統べている。宇宙の秩序を保つもの、正義を守るもの、契約と信義をつかさどるもの、そして万物を支えるヴィシュヌ神のように、大いなる力を持つ神々である。母であるアディティ神は、その子供たちが持つ全ての力を、内に宿している。プナルバスの人が、一つの役割に収まらず、慈しみ、導き、癒し、与えるという複数の顔を併せ持つことがあるのは、この母なる源から来ているのかもしれない。
だからプナルバスの人は、慈しみ守る母なるものと、文化や信仰の枠を越えて響き合う。自分が誰かを包むだけでなく、見知らぬ土地の、異なる伝統を持つ人々のほうから、まるで古くから知っていた母を迎えるように、迎えられることがある。
仕事と、与えるということ
プナルバスの人は、知恵と再生を、人に手渡す仕事に向いている。木星の叡智と、アディティ神の養育が結びつくこのナクシャトラは、教える人、導く人、癒す人を、数多く生んできた。教師、助言者、心理に関わる者、書く人、語る人。古典では、プナルバスの人が言葉に長け、複雑なことをやさしく伝える力を持つと伝えている。
その仕事ぶりには、再生のナクシャトラらしい特徴がある。権威で人を従わせるよりも、相手のなかにある可能性を育てようとする。実りを与え、木陰をつくる木が、見返りを求めないように、惜しみなく与える。自分が幾度も立ち上がってきたからこそ、倒れている人に向かって、ここからまた立てる、と本心から言える。プナルバスの人が誰かを助けるとき、それはきれいごとではない。自分が通ってきた道を、知っているのだ。
現れ方は、配置によって大きく変わる
ここまで書いてきたプナルバスの姿は、その強さも陰りも、すべての人に同じ濃さで現れるわけではない。どの惑星がこのナクシャトラにあるかによって、舞台は変わる。月がプナルバスに在る人は、主に心の世界で再生を生きる。感情の浮き沈みや、絶望と希望のあいだの振れ幅が、人生のテーマになりやすい。太陽がプナルバスに在る人は、社会のなかでの立場や仕事の場面で、それを生きることが多い。同じ再生でも、現れる場所が違う。
また、このナクシャトラは、二つの星座にまたがって位置しているため、同じプナルバスを持って生まれても、異なる世界を生きることがある。
このように、プナルバスの再生がどれほどの深さで、どの領域に現れるかは、チャートの全体を見なければ分からない。とりわけ、苦難と忍耐を司る土星がこのナクシャトラに関わるとき、喪失と回復のサイクルは、より深く厳しくなるとされる。惑星ごとの詳しい現れ方については、稿を改めて記したい(※将来、惑星別ページへのリンクを設置予定)。
プナルバスを理解する鍵は、このナクシャトラの明るさを、闇のないことと取り違えないことである。プナルバスの光は、一度も暗くなったことのない光ではない。幾度も消えかけ、幾度も燃え尽きそうになり、そのたびに、もう一度灯されてきた光である。
足ることを知り、人を信じ、惜しみなく与え、そして倒れても、また立ち上がる。その一つひとつが、平坦な人生から生まれた美徳ではない。失うことを、誰よりも知っている人が、それでもなお、世界を信じることをやめなかった──その選択の、積み重ねなのである。私たちがプナルバスのなかに本当に見ているのは、何があっても傷つかない強さではない。何度も深く傷つきながら、それでも、もう一度光を信じることを選び続ける、その静かな勇気なのだ。
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