つかまえたと思った瞬間に、もういない。あの人は、いつもどこかへ行ってしまう。
スヴァーティ(Svati/Swati)── 風になった者
天秤座6°40′から20°00′までを領分とするこのナクシャトラは、支配星を影の惑星ラーフ、神格を風の神ヴァーユに持つ。シンボルは、風に吹かれて揺れる一本の若い芽。広い大地にただ一本だけ立ち、絶えず揺れながら、それでも折れずにそこにある草である。古典では、もう一つの象徴として珊瑚を挙げることもある。海の底で、長い時をかけて自らの枝を伸ばし、硬く育っていくものである。柔らかく揺れる若芽と、時をかけて自力で形を成す珊瑚。対照的に見えるこの二つは、同じナクシャトラの二つの面を映している。
スヴァーティという名は、「自ら行く者」「独立した者」を意味する。誰かに連れられて行くのではない。自分の力で、自分の向かう先へ進む者。この名ほど、このナクシャトラの芯を端的に言い表すものはない。
支配星ラーフは、世俗的な渇望と、型にはまらない拡大を司る。実体を持たないこの惑星は、正面から進むことをせず、思いがけない方向へ、際限なく広がっていこうとする。スヴァーティの自由と落ち着かなさの奥には、このラーフの渇きが働いている。
文献は、スヴァーティを生きる人を、柔軟で人当たりがよく、物腰の和らかな人として語る。外交の才に長け、商いや交渉に向くともいう。その記述は正しい。だが、それだけではこのナクシャトラの芯には届かない。なぜ独立を求めるのか。なぜ留まらないのか。その奥を読まなければ、スヴァーティの本当の姿は見えてこない。
スヴァーティの本質は、風そのものにある。
風は、どこへでも行ける。誰にも捕まえられない。優しく頬を撫でることもあれば、すべてを薙ぎ倒す嵐にもなる。そして何より、ひとつ所にとどまることがない。スヴァーティを生きる人の根には、この風が、好みや気分としてではなく、もっと深いところに刻まれている。
つかみどころのない存在
風は、捕まえようとすれば手のひらをすり抜けていく。掴んだと思った次の瞬間には、もうそこにいない。この留まらなさが、スヴァーティを生きる人の対人関係に、独特の影を落とす。
人といる場が、どこか落ち着かない。大勢の中にいると、長くはそこにいられず、ふと席を立ちたくなる。和やかに人と交わる力を持ちながら、その芯では、ひとりでいることを求めている。にぎやかさの中にいて、心はもう戸口の外の風を感じている。このちぐはぐさが、スヴァーティを生きる人の内側に、静かに横たわっている。
この留まらなさは、対立の場面でとりわけはっきりと現れる。風は、正面から争わない。意見をぶつけられても、言い返すでもなく、屈するでもない。聞いているふりをしたまま、煙のように、いつのまにかその場から消えている。正面から受けず、かわして抜ける――これは支配星ラーフの性質でもある。ラーフは正面突破を嫌い、まっすぐ進むことをしないからである。
古典では、スヴァーティを「障害物に妨げられず空間を渡る風」になぞらえる。壁は風を止められない。立ちはだかる制限は、風を封じるのではなく、その向きを変えさせるだけである。スヴァーティを生きる人もまた、ほかの者が行き止まりと見るところに、いつのまにか別の道を見つけている。それは、見事な切り抜けにもなる。だが対立の場では、同じ力が、正面で受け止めずに脇へ抜ける身のかわしとなって現れる。
そのかわし方は、向き合う相手には「逃げ」と映ることもある。けれど本人にとっては、戦いを避けているのではない。一所に縛られて立ち止まること自体が、難しいのである。
風のもう一つの顔
ここまで影の面を見てきた。同じ風は、まったく違う面も持っている。
若芽が強い風に身を傾け、過ぎればまた起き上がるように、逆らわず受け流す柔らかさこそ、スヴァーティの逆境を生き抜く力である。
ふだんのスヴァーティは、和やかである。物腰は柔らかく、声は穏やかで、人のあいだを波立てずに渡っていく。風がそよぐように、ともにいる相手をくつろがせる。人が自然と心を開き、惹きつけられるのはそのためである。古典でも、このナクシャトラの人を、自制が利き、もの言いが快く、心優しく施しを好む者として挙げる。荒々しさよりも、穏やかさと品のよさが、スヴァーティの地色である。そして、風の神ヴァーユは、すべての生きものへの息吹、生命力そのものを司る神でもある。そのためかスヴァーティを生きる人には、見た目以上の底力がある。古典が「渇きに耐える者」と評するのも、この尽きない生命力ゆえである。
しかし風は、柔らかいばかりではない。ヴァーユ神は、ときに嵐となって吹き荒れる。ふだんの柔和さからは想像しにくい強硬さを、スヴァーティの人はときに見せる。いったん思い込めば、頑として動かず、周囲の言葉に耳を貸さなくなる。とりわけ、自分の自由な領分に外から踏み込まれたとき――掴まれ、定義され、型に押し込められそうになったとき――風は激しく抗う。
縛られず、自分の足で歩く。それが正しく働くとき、スヴァーティを生きる人は、誰の手も借りずに進んでいく。柔軟さと交渉の才を備え、人のあいだを風のように渡り、国境さえ越えて、どこへでも軽やかに動く。古典では、このナクシャトラに宿る力を「運び広げる力」と呼ぶ。風が種を遠くへ運ぶように、ひとところにとどめず、広い世界へと届けていく力である。
この自由への渇きが、とりわけ濃く出る人もいる。決まりきった枠に収まることをよしとせず、誰も通らなかった道をあえて選び、型を破って自分だけのかたちを切り拓く。そういう人にとって、自由は、息をするのと同じように欠かせない。枠にはめようとされるほど、風はいっそう外へ向かう。
仕事と、渡り歩くこと
スヴァーティを生きる人は、自分の裁量で動ける場所でこそ力を発揮する。独立心、交渉力、人当たりのよさが組み合わさり、束縛の少ない領域で伸びていく。自ら道を切り拓く仕事、人をつなぐ仕事、土地を越えて動く仕事。細かく管理される環境よりも、自分のペースで進める環境のほうが、はるかに向いている。古典も、スヴァーティに向く道として、商いや交易、独立した仕事、旅や移動を伴う仕事を繰り返し挙げる。利害の異なる者のあいだを取りもち、対立をほどいて落としどころを見つける――そうした交渉や仲裁の才も、古くからこのナクシャトラに結びつけられてきた。
その根にあるのは、優れた知性である。一つの専門に閉じこもるより、いくつもの分野を横断して学び、広く通じていく。風がどこへでも吹き渡るように、知性もまた、境界を越えて広がる。そしてその知性は、しばしば言葉の才となって現れる。語学に長け、文章で伝え、話して人を動かす。スヴァーティが古くから、学びと言葉の女神サラスワティーに結びつけられてきたのも、この言葉の才ゆえである。神話のヴァーユもまた、神々のあいだを行き来して言葉を運ぶ、伝令の神とされる。風に乗って言葉が遠くまで届くように、スヴァーティを生きる人は、知識と言葉を携えて世界を渡っていく。
ただし、ここにも風の影は差す。落ち着かなさのために、一つのことに腰を据えて取り組み続けるのが難しい。古典では、スヴァーティの弱点として、決めきれずに先延ばしにすること、手を広げすぎて一つひとつが浅くなること、最後までやり遂げにくいことを、繰り返し挙げている。風は、ひとところにとどまって地面を深く掘るより、次の場所へ吹いていくことを好む。心惹かれる新しいものが現れれば、前のものは置き去りになりやすい。
同じ落ち着かなさは、行き詰まったときにも顔を出す。その場に踏みとどまるより、風は遠くへ向かおうとする。支配星ラーフが「ここではないどこか」への渇望を刻んでいるために、海外や遠い土地への移動は、ときに、満たされない何かを埋める行為に近くなる。その場に残り、腰を据えて片をつけることよりも、新しい風の吹く方へ。それが、このナクシャトラの軽やかさであり、同時に危うさである。
恋愛・パートナーシップにおいて
愛の領域は、スヴァーティを生きる人にとって、その本質が最も試される場所となる。
愛も結婚も、本来はつながること、留まることを土台とする。相手のそばにとどまり、時間をかけて関係を育てていく。けれどスヴァーティにあるのは、留まらない風である。留まることを土台とする愛を、留まれない人がどう生きるのか。そこに、このナクシャトラの恋愛の難しさがある。
スヴァーティを生きる人は、対等で、風通しのよい関係を好む。束縛を嫌い、互いに自由でいられる距離を求める。それは、健やかで成熟した関係にもなりうる。だが風が強く出ると、心が一所に留まりきらず、相手との距離が、近づいたかと思えばまた開く。古典でも、スヴァーティの人が自由と自分の空間を大切にするために、常にそばにいたいとする相手や、縛ろうとする相手とのあいだに溝が生まれることがある、と書かれている。
これは、愛がないということではない。愛し方そのものが、風の質を帯びている。留まれないことは、薄情さとは違う。ただ、一所にとどまることが、風には難しいというだけである。
古典では、スヴァーティの人とうまく連れ添える相手についても語っている。近すぎる相手とは、その自由が損なわれる。遠すぎる相手とは、互いに与え合う関わりが結べない。近からず遠からず、自由を尊んだうえでそばにいてくれる相手とのあいだでこそ、この風は穏やかに吹き、深い関係を結ぶ。
体の中を吹く風
スヴァーティの風は、心や生き方だけでなく、体にも及ぶ。神話のヴァーユが外を吹く風であると同時に、体の中をめぐる風でもあるからである。インドの伝統医学アーユルヴェーダは、体を動かす根本の力の一つを「ヴァータ(風)」と呼び、呼吸や巡り、動きを司るものとする。スヴァーティは、この体内の風と深く結びつく。
そのため古典では、スヴァーティの風が乱れるとき、体内のヴァータもまた乱れやすいと説く。風が司るのは、何より呼吸であり、神経である。その乱れは、息の浅さや呼吸器の不調、気の休まらなさからくる神経の疲れ――眠りの浅さや、不眠、落ち着かなさ――となって現れる。腹部の張りなど、巡りの滞りとして出ることもある。
だからスヴァーティを生きる人にとって、めぐりを整えること――息を深くし、体の風を滞らせないこと――は、心身の支えになりやすい。アーユルヴェーダも、ゆっくりとした深い呼吸が、乱れたヴァータを鎮め、落ち着かない心を静めると説く。風のナクシャトラにとって、呼吸を整えることは、ただの健康法ではない。心そのものを落ち着けるための、確かな手立てである。
だからスヴァーティを理解する鍵は、その独立や自由に見えるものの奥に、「どこにも縛られたくない」という渇きと、「それゆえ、どこにも留まれない」という孤独を、同時に読み取ることにある。
風は、自由の象徴である前に、つながりを持たないものの姿である。どこへでも行ける軽やかさと、どこにも根を張らないことは、別のものではない。同じ一つの風の、表と裏である。
それは、どこにも属せないからではない。それが風だからである。私たちがそこに見ているのは、その人の冷たさではない。自由を生きる者の、まぎれもない姿である。風は、止めることはできない。だが、自分の内に吹く風に気づいたとき、その人は、風と穏やかに付き合えるようになる。
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