学んだことが、財になる。得たものを存分に楽しむのが、あの人なのだ。
ウッタラ・ファルグニー(Uttara Phalguni) ── 学識が、財となる者
ウッタラ・パルグニー、Uttara Phalgunī と記載されることもある。
ウッタラ・ファルグニーは、獅子座26度40分から乙女座10度00分にまたがり、支配星は太陽、司る神格はアリヤマンである。象徴は寝台の後脚。ガナは人族。
▶ 参考記事:ナクシャトラの三つのガナ ── 神族・人族・羅刹族
「ウッタラ」と言う名前は「後の」を意味する。プールヴァ・ファルグニーに続く、もう一つのファルグニーである。象徴の寝台の後脚は、前脚が憩いの場をつくるのに対し、くつろぎを終えて、再び立ち上がるための脚とされる。
多くの解説は、このナクシャトラを「誠実」「契約」「忠誠」の言葉で語る。アリヤマン神が盟約の神であることから、そう説かれる。間違ってはいない。だが、古典が書きとめてきたのは、少し違うところである。
財産の、ありか
古い文献は、この人について、驚くほど一貫したことを記している。賢く、聡明で、諸芸に通じ、人によく教え、そして、相続した財産や地位ではなく、学識によって財を得て、それで暮らしを立てる、と。古典が、この人の財を「自ら得た財産」と記すのも、そのためである。
伝統的な解説では、このナクシャトラは、法や契約、仲裁と結びつけられている。取り決めを読み解き、条文を扱い、争いのあいだに立って裁く。そうした場所で、この人は力を発揮するとされる。人を教え、文章を書き、研究する道も、同じである。組織を束ね、段取りを整え、公の務めを担う場も、この人に向く。
いずれも、身につけた知識と、揺るがない基準が、そのまま働きになる場所である。
上質を、好む
古典では、同じ人について、もう一つのことも繰り返し記されている。享楽的で、安楽を得て、贅を享受し、快さを求める、と。
学識のある人と、快さを求める人。この二つは、別の人のことのように聞こえるかもしれない。だが古典は、これを一人の人として描いている。学んで財を得て、その財で、心地よく暮らす。得たものを、きちんと享受する。それが、この人の生き方なのである。
その好みには、神格の性質も重なっている。アリヤマン神は、気高さを司る神である。その名は、「高貴」を意味する語と結びついている。伝統的な解説では、武器や力によってではなく、名誉と品位によって人を照らす神とされる。だからこそ、この人は、良いもの、上質なものに、自然と心を向ける。
古典では、その気高さの、もう一つの面も記されている。品位を重んじる心は、行き過ぎれば、優越感に変わる。自分は他人より上だという思い。見栄。より高価なもの、より良い立場を求めて、心が休まらなくなることもあるという。
そして、こうも伝えられている。幸せそうな笑みの下で、悲しみや怒りを抱えていることがある、と。
守り、動かない
それぞれのナクシャトラは、古くから、その性質によっていくつかに分類されてきた。先立つプールヴァ・ファルグニーが「激しい」性質を与えられているのに対し、あとに続くこのウッタラは「固定」とされる。寝台の前脚と後脚のように対をなす二つは、その気質において、大きく異なっている。
伝統では、この動かないという性質が、そこに生まれた人の気質にも現れると考えられている。一度決めたやり方を、長く守り続けるということが、ウッタラ・ファルグニーの人の基本にある。ただ、伝統的な解説では、この人が一つの考えに固執し、他者の助言を容易には受け入れないとも記されている。決めた段取りが狂うことを嫌い、予定が崩れると苛立ちを見せやすい。動かない強さと、動けない硬さは、同じところから出ている。
恋愛・パートナーシップにおいて
アリヤマン神は、もてなしを司り、共同体を保つことに努める神である。そのため、古典では、よい結婚相手を与える神として祈願されている。悦びを分け与えるバガ神に対し、アリヤマン神が司るのは、人と人との結びつきである。ヴェーダの婚礼の歌では、老いに至るまで二人を見守り、昼も夜も結び合わせる神として、その名が呼ばれている。今日でも、ヒンドゥーの結婚式では、この神の名が唱えられる。
そして、ウッタラ・ファルグニーそのものも、婚姻と結びついてきた。満月がこのナクシャトラにめぐってくる日は、神々が結ばれた日として、今も南インドで祝われている。結婚に最もふさわしいナクシャトラの一つとされてきたのも、そこにある。伝統的な解説では、契約や取り決めを守り、相手に深い安心感を与える人だとされている。
ただし、伝統的な解説は、この人の影の面も記している。
相手の気持ちが変わっても、この人のやり方は変わらない。求められているのが慰めや共感であるときにも、返ってくるのは、取り決めであり、道理である。それが、時に冷たさとして相手に届く。
距離の取り方にも、同じ性質が出る。この人は自分を守るために、相手との間合いを取る。その間合いが、やがて隔たりになる。相手が自分にとって値しない人だと見なせば、その態度は、よそよそしさとなる。さらに、一度、裏切られたと感じたことを、この人は忘れない。
伝統的な解説には、この人に足りないのは温かさである、と記されている。誠実さでも、律義さでもない。ただ、温かさというものを差し出すのが、この人には難しいのかもしれない。
ここまで見てきたのは、一人の人の、光と影である。学識と、物質的な成功。品位と、その裏の見栄。動かない強さと、その硬さ。そして、温かさの遠さ。
だからウッタラ・ファルグニーを理解する鍵は、この人が手にしている豊かさそのものではなく、それがどこから来たのか、光も影も含めて見ることにある。人が目にするのは、満ち足りた、今のこの人の姿である。しかし、ここまでに至る道のりも、幸せそうな笑みの下に何があるのかも、外からは見えない。
それを知っているのは、この人自身だけなのである。
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